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小説 十九歳……。  [小説]

 五月二十六日(火)晴       

 これから書くことがすべて夢であってほしい。

 意識がもうろうとして夢のなかにいるみたいであるように、事件そのものも夢であってほしい。

 だがこの後頭部のでっかいこぶは、しくしく痛む左腕のすり傷は、紛れもない現実だ。

 このまま寝ちゃったらあしたの朝、ちゃんと目がさめるだろうか?

 六時二十五分でした。もうじきみんな集まることになっている、と、原島さんにいわれた。

 私は、外へ出て、ラビットに乗って、人けのない裏通りを真っすぐ走っていた。

 裏通りをのろのろと出ようとしたとき、前方をオート三輪が横切った。いけない!!

 横倒しになったラビットのエンジンがブルンブルン…と耳の横で鳴っていた。

 目の前に、眼鏡をかけた男の顔がにやにや笑っている。

 抱き起こしてくれたその人の腕の中でふらっと倒れかけて、「大丈夫です」と無理笑いをした。

 引き起こしたラビットを押しながら歩いていると、子どもが二、三人ついてくる。

 どこの道をどう通って戻ってきたのか、全然記憶にない。

 ずいぶん遠くまで行ったようだし、すぐ近くだったようでもある。

 考え方社の看板が見えて、うちはどこかこの辺だなと思った。

 ラビットを土間へ入れて、それからあとのこともまるでもやの中だ。

 部屋に入って、倉庫へ出て、事務室へ歩いていったようだ。

 青木さんが何か話しておられる。

 声は耳から入ってくるけど言葉は頭に入らない。頭の後ろに両手をあてがっていたら、注意された。

 一時間ぐらいたったのか、いつの間にか部屋に戻っている。意識がはっきりしてきた。

 そうしたら別の不安が頭をもたげてきた。ラビットに損害はなかったかということです。

 無事であってくれ! どうか、ラビットに故障がありませんように!

 軽率な行為のバチがたちまち当たったわけですが、なに、コブ一つを笑い話の種に提供しただけさ、そんな気もします。

 ともあれ、お詫びします。おゆるしください。

 二十七日朝、目が覚めた。よかった! 大したこと、ない。

 田舎者の神経は案外図太いものであるらしいです。

 ─山本公平は、彼が昨夜から初めて書くことになった『宿直日誌』に、そんなへんてこな事後報告を記し、二階の編集室の社長の机の上に置いた。

    *

 A─書店は、マルクス主義にもとづく人文科学や社会科学の書籍と文庫を主たる刊行物としてもつ出版社である。

 いわゆる「左翼出版」の一社だが、そうした思想・主義の確かな持ち主は編集部の二人だけのようだった。

 社長は穏健なシンパ、社員はノンポリ、労働組合もあることはあるのだが、ほとんど何の活動もしていない。

 社員が「青木さん」と呼ぶ社長のもと全社員十二人(男八人、女四人)、みんな普通にいい人ばかりの家族的な雰囲気の会社だった。

 だが去年五月の「血のメーデー事件」の余波なのか、なにか不穏な気配が会社の周辺を取り巻くようになった。

「アカの本、出すな!」と玄関のドアに張り紙されたり、投石で窓ガラスを割られたりした。

 暮れから一月末にかけて、深夜、倉庫の外の壁ぎわに置いたゴミ箱に火をつけられることが、二度、三度、重なった。

 ゴミ箱の中には返本の処理作業で出た紙類がどっさり入っている。マッチ一本でひとたまりもなく燃え上がってしまうのだ。

 さいわいその都度、路地を隔てた隣家の材木屋のおかみさんや住み込みの若い衆が、いち早く発見し、消し止めてくれた。

 家業ゆえ火の気には徹底的に敏感な人たちに助けられたのだった。

 しかし、これはもう容易ならぬ事態だ。会社を守ろう。

 夜間、無人になるのが問題なのだから、男子全員による輪番制の宿直を行なおう。

 ただし独身者と妻帯者の回数の比は二対一とする─と、みんなで話し合って決めた。


 そして二月二日から宿直が始まった。

 菊判平綴じノートの『宿直日誌』の冒頭に記された「宿直心得(原則として)」─。


 一、全員退出後、宿直者は一階事務室にあって任につき、左の社内外の巡視の他は自主判断にもとづいて就寝する。

 巡視時間 午後十時~十二時に二回 午前零時以後に一回。

 巡視範囲 社内─火元、戸締り 社外─社屋周辺とくに裏口路地。

 二、事故のあった場合は、ただちに隣家に連絡し、さらに猿楽町交番へも通報する。

 三、事故はいろいろの形をとる可能性があるが、根本は、事故の処理とその発生の防止にある。したがって巡視による示威行動が有効であり、不審な人物を目撃したらできるだけ長時間の監視(懐中電灯の直照など)をする。

 それでもなお動かなかったりしたときは、当然「誰何」し、相手の応答によって、社内に向って大声で「○○君、来てくれ」の発言をこころみたり、隣家に声をかけたりする。

 つまり、なるべく大さわぎをし、宿直が厳重であることを悟らせること。大げさにしすぎた後始末は明朝いかようにも処理できることである。

 なお、隣人・石合氏の協力は、先方の申し出もあり、確約を得ている。

 四、恒久的住み込み者の決まるまでの期間、全員の努力をもって職場を守りぬき、併せて近隣の市民の生活をも擁護したい。

 五、以上は原則であって命令ではない。各自の良識と熱意とによって臨機応変な実践をお願いする。

 一九五三年二月          青木

     *

 山本公平は、すかんぴんの十九歳だった。

 去年三月、学生服の内ポケットに千円札五枚封入の茶封筒を後生大事にしまい、鹿児島から三〇時間、三等車の硬い板椅子に座りづめでやってきた。

 以来一年間は同郷の先輩、岩川吉朗さんの住む北区赤羽の裏町のアパートに同居、昼間は働き、夜学に通った。

 ところが、この春、吉朗さんが大学を卒業、神奈川県の教員採用試験に合格し、勤務校のある小田原市へ引っ越すと、たちまち逼迫、困窮することとなった。

 それまでは家賃の大半の三千円を、隔日勤務の駐留軍通訳というけっこうな稼ぎ口をもっていた先輩が出してくれた。

 アパートの四畳半の家賃三千五百円は、「一畳千円」が相場とされる都区内ではかなり割安ではあったが、それを毎月払い続けるのは到底不可能だった。

 なにしろ常勤的なアルバイト先の渋谷道玄坂上のペンキ屋の下働きでは一日百五十円しかもらえなかったのだ。

 窮余の手っ取り早い一策。新聞の求人欄で見つけた「住み込み三食付き二千円」という麻布十番の牛乳店を訪ねて採用された。

 仕事は、そこから霞ヶ関、日比谷、丸の内方面の官庁や会社の食堂などに大口個数の牛乳を届けることだった。

 その「特区」と呼ばれる担当区域は、店の周辺の複雑な順路の戸別配達とは違って、新米店員でもすぐ覚えられた。

 頑丈な自転車の後ろの荷台に小瓶四十五本が詰まった木箱を二個重ねて積み、一箱分を半分ずつに分けて入れた二つの荷袋をハンドルにぶっちがいにかけて、片道小一時間の道を走り、各所に決められた本数を届けて、前日の空き瓶を受け取って戻る。

 荷台に二箱積むと後ろが重くなって前の車輪が浮き上がる。

 ハンドルに一箱分をかけると、前後の重量のバランスがうまくとれるのだが、道を曲がるときは、重たい荷袋でがっちり固定されたハンドルの向きを、体ごと傾けるようにして変えなければならなかった。

 午前中一往復、午後二往復の配達、夕方は店の内外の掃除、夜は雑魚寝の部屋でバタンキューといった日々にすっかり慣れて、一時しのぎのつもりだったが、このままずっと牛乳屋をやるのもいいか…などと思うようになっていた。

 そのころ、A─書店の住み込み社員の口がかかったのだった。

 話の仲介者は、やはり郷里の先輩で小学校(国民学校初等科)のときの恩師でもある石井一丸先生だった。

 石井先生の友人が雑誌編集者の西田義郎氏で、西田氏と仕事上密接な関係にある人が、A─書店社長の青木春雄氏─という回路を経てもたらされた幸運であった。

 西田さんに連れられて青木さんの面接を受けて、「いつでもいいですよ、なるべく早くいらっしゃい」と言ってもらえた。

    *

 五月の連休明けの土曜日の午後、山本公平は、麻布十番の商店街のはずれにある牛乳屋から布団袋(内容は夜具、衣類、数冊の本=つまり全財産)をかついで坂を上り、六本木で都電33番線に乗り、信濃町で国電中央線に乗り継ぎ、三つ目の水道橋駅で下りて、そこからは歩いて、神田神保町一丁目六○番地のA─書店にやってきた。

 会社の建物は、表の通りに面した木造二階建ての階上が編集部、階下が業務部で、階下とつながった裏手の長い平屋が倉庫になっている。

 公平が今日から住むことになる小部屋は、倉庫のなかほどの片隅を板壁で仕切ってつくられ、真新しい畳が二枚敷かれ、半畳分の押入れがついている。

 路地側の壁面の背の高さほどのところに、新聞紙を横に広げた大きさの板ガラスが嵌め込まれてある。

 その動かない窓の真下に、例の放火事件の火元のゴミ箱があるのだった。

 今夜の宿直者は業務部の田中久雄さん。

 五月九日(土)晴         田中

 九時、大熊氏を最後に全員退出。本日より山本君が住み込むことになり、心強い。

 早速、宿直心得を熟読してもらい、用心棒と懐中電灯を持ち社内外の点検を依頼する。


 十一時、山本君、社外巡視し、異状なしの報告を受ける。十二時半、異状なし。就寝。

 公平は、宿直心得を読み、これまでの「日誌」にもざっと目を通した。

 宿直は二月二日の夜から始まったが、日誌が用意されたのは三日目で、最初の記述者は業務部の鈴木準太郎さんである。

 二月四日(水)曇         鈴木

 八時四十分、青木氏を最後に全員退出。宿直の任につく。

 午後十一時、第一回見回りをする。裏通りにて一組のアベックに会う。

 午前○時四十分、二回目の見回りのさい石合材木店の母屋の横、材木置き場の凹みに人がいるような気配を感じた。

 懐中電灯で照らすと、身長五尺三寸ぐらい、黒の中折れ帽子に短めの黒のオーバーの男が、後ろ向きに立っていた。

 すこし気味悪く、社屋のなかに入る。二、三分たって、こんどは表の玄関より出て路地へ回ってみたら、男はいなかった。

 不審ではあったが、異常はなかった。裏路地角の外灯を早くつけてもらいたい。

 ─これについて、青木さんが赤インクのペン字でこんな注文をつけている。

「この場合、声をかけて、近ごろ、ここはブッソウなことが多く、警戒しているから間違われぬようにしてください、と言う。

 相手の出方に応じて、どこの誰で、何の用があってこんなところにいるのか、と問う。

 必要あらば、石合さんに出てきていただくなどしてもらいたい。

 人物の印象はなるべくくわしく記憶しておくこと。

 なお、この日誌には、宿直中に受けた電話、電報、速達、来客なども記録してほしい。」


 以後、堀井欣弥(業務部)、福田保(倉庫係)、田中、原島正男(倉庫係)、曽根原武信(編集部)、栗原幸二(編集部)、渡辺果(編集部)、青木と一巡し、二巡目からは鈴木、堀井、福田、田中の独身組と、原島、曽根原、栗原、渡辺、青木の妻帯者組の二対一の宿直が日曜・祝日も含む連夜続行、記述のところどころに社長の赤ペンが入っている。

 二月十三日(金)雨、夜半より雪  堀井

 十時ごろ、発信者不明の電話二度かかる。

 十時三十分、社長、於・一新クラブ「社会科学基礎講座」の販売会議より帰社。

 十一時、社長、退出。十一時半、十二時半、一時半、社外を巡視。異状を認めず。

 青木さんの赤ペン─。

「宿直の励行について石合さんから謝辞があった。最終の巡視の足音を心強く聞きながら安眠につける─とのこと。

 二月四日のような場合は、勝手口のガラス戸を叩いてくれれば一せいに飛び出し協力する─と言明された。これは大いに心にとめておき実行されたい。

 不審電話は、宿直の有無・警戒の模様をサグるものかともかんがえられる。夜間は必ず階下(就寝時は階上)に切り換えておき、すぐ出てハッキリと応答してもらいたい。

 用心棒の使用法=あの角材はなかなか威力的なので、むやみに用いると相当な打撃を与えるにちがいない。

 そこでその使用限度として、

 ①脚を払う(すなわち腰から上には使用しない)。②正当防衛にのみ用いること。

 ③ただし、火の手が上っているとき犯人を見つけた場合は、脚を払って逃げられぬようしておいて、消火にかかる(石合さんを呼ぶことはもちろん!)。」


 ─一本だけ引かれている電話は、二階の編集部と一階の業務部の共用で、切り換えスイッチは一階にある。

 二階で電話が要るときや、二階の人にかかってきた電話を一階で取ったときは、階下から階上へ天井を貫いて通した伝声管に口を寄せて、「電話を回して!」とか「○○さん、電話ですよ!」と、声を吹き込むのである。

 ブリキ板で作った伝声管は、潜水艦の潜望鏡の形に似ている。


 二月二十五日(水)小雨      青木

 ▲最近の国会で、左派社会党が、「『世界』『平和』の読者調査を国警が行なっているとの声があるが、明らかに言論の圧迫であり、憲法違反であるからその事実を調べよ」と追求し、司法当局から「その事実なし」との回答をうけたことは、新聞紙上に出たとおりである。─以下8行略─。

 近ごろは不審な事件が遠のいた感があるのは、こうした世情の推移に加えて、宿直の自衛態勢も大きな一因と思う。

 ▲アカハタの広告原稿取りを九時に帰したあと、二度ほど横手の路地に物音がし、二時ごろに不要と思われる靴音が通った。三度とも用心棒とランプをさげて出た。異常はなかった。

 もし目の届かないところに誰かがいたりしたならば、デモンストレーションとなるだろうと、用心棒を杖がわりにコツコツと音を立てながら小雨のなかを行きもどりした。

 ▲今夜あらわれるやつは不幸な奴だな! と気負った用心棒もついにすねをかっぱらう役目を果たさずに無事に夜が明けた。

 小林製本へ紙を渡し、寝台の上で朝の一服をつけていたら、ドヤドヤと二、三人出社してきた。

 ▲シーツは、どれが予備なのか、使用中のものなのか、わからない。紙ヒモで予備の方をしばるなりして、区別しておきたい。

 ▲朝、ベッドを元に戻したら、テーブル・椅子を応接間らしく整えておくようにしたい。

 ▲業務・編集を通じて、退出のときの机の上の整頓はだいぶよくなったが、もう一そう努めてもらいたいように思う(自戒、青木と『平和』関係の机が一番よろしくない。まずこれを改めなければいけない)。

 倉庫の状態はもっとなっていない。あれでは退出できないはずだ。

 上下階の石炭ストーブのほこりがひどい。朝の掃除のとき、ハタキをよくかけるようにしたい。

 ▲最近、道がわるいせいか、古女房になったためか、ラビットと自転車の汚れが目立つ。新妻は誰でもチヤホヤするが、古女房はとかくギャクタイされる。

 仕事の上ではアシは女房みたいなものだ。可愛がってもらいたい。

 以上のこと、それぞれの係が読んで処理してもらいたい。

 ─青木さんの長文の記述の余白に、男子社員全員と女性の大熊さん、館林さん、谷口さん、佐藤さんの回覧済みの捺印がたてに並んでいる。

 文中の『平和』というのは、民主主義科学者協会(民科)編集の雑誌。発行・発売元のA─書店に、編集実務を行なう西田義郎氏と池田諭氏の机が置かれてある。

 宿直用の寝台は、編集室の一角、社長の大机の背後に置かれてあるソファーベッドで、昼間は応接セットに変わる。
 

 三月─四月。おおむね平穏な夜が続いた。

 三月中旬、編集部に大学新卒の加藤佑治さんが入り、大学の夜間部に通っていた倉庫係の福田保さんが昼間部に転じるため、三月いっぱいで退社した。

 そのために空いた宿直当番は加藤さんが受け持つことになった。

 四月二日(木)午前中雨、午後曇     加藤

 八時三十分、鈴木、谷口両氏を最後に全員退出。直後、太陽堂から『平和』の表紙の凸版が届き、受け取る。

 宿直という言葉の観念的な意味は知っていたが、体験的に知るのは今夜がはじめてだ。みんながいやがっていた宿直も、生まれてはじめての人間にとってはまんざらでもない。しかしおそらくこの考えは甘いのだろう。そうでなければ全員そろって音を上げるはずがない。はじめてだからこそまんざらでもない気持ちでいるが、だんだん負担になってくるのであろう。責任感の強い者ほどそうなるのは当然かもしれない。

 十時、木刀をもって巡視。裏口から外へ出る。おぼろ月が中天にかかり、なかなかよい風情。一回りしたが、人っ子一人出会わない。

 十一時三十分、異状なし。一時二十分、やはり異状なし。さすがに眠い。

 四月三日(金)雨のち曇      原島

 十時半、十一時半、見回り異状なし。ときどき酔っ払いが大声でわめきながら表を通る。

 十二時半、最後の見回りをし、寝床にもぐる。

 四日早朝、電話のベル。あわてて飛び起き、受話器をとると、「モシモシ、亀よ、亀さんよ」の歌声が伝わってくる。陽気のせいだなあと思った。

 四月四日(土)晴のち曇、ときどき雨   田中

 八時ごろより風雨がやや強く気温も下がりうすら寒くなってきた。八時四十分、社長を最後に全員退出。

 倉庫角に外灯が取り付けられ、以前に怪人物の立っていた辺りを明々と照らし、安心である。

 十時、社内外一巡、異状なし。十二時半、社外一巡。土曜日のせいか、遅い時間に数人の男女が話しながら歩いている。

 五日、朝九時ごろ、三河屋がリヤカーで畳を運んでくる。倉庫に入れる。

 十一時、戸締りを点検して退出する。

 四月五日(日)晴         青木

 ▲五時、出社。花見の人通りも神田界隈は大したことはなく、静かな夜である。外灯をつけ巡視をすませ、明日の支払いの用意をする。一時、明るい路地を見回ってから寝る。

 ▲曽根原君の提案で大戸に南京錠をつけたようだが、非常のさいむしろ危険かと思う。外から開けられなければ錠なしの戸締まりだけの方がよいだろう。

 ▲宿直制度について全員の悲鳴があがっているということだが、この制度を実施するときの必要性と期間の約束からして、近日中に結論を出すつもりである。


 ─社屋の横手の路地に面した、倉庫の一間半幅の大戸は、上部の桁につけた滑車で吊られてある。

 大戸を引き開けると、内側のセメントで固めた土間は、昼間は返本を受け取る場所になり、夜間はラビットや自転車の置き場となる。

 夕方、戸を閉めたら、大戸の桟につけた留め金を裏口の潜り戸側のU字形金具に引っかけるのだが、それだけでは不十分だ。錠をつけたほうがよいのでは─という曽根原さんの提案(三月二十八日の宿直日誌)を受けて南京錠がつけられた。

 だが、それだと、火災など非常のさいカギを開けるのにまごつき、かえって危ないのでは─という青木さんの指摘により大戸の戸締りは元のかたちに戻された。

 この処置について、曽根原さんは四月十日の夜、「十二時半、異状なし」に続けてこう記した。

「どうも大戸の錠に固執するようであるが、試みに戸外より大戸によりかかって腰をひねってみよ! なんら戸締りの用をなし得てないのが、理解されるであろう。この程度の運動は食後において好適である。

 ちなみに愚輩は手近に見つけた薪を金具の孔に差し込んでおいた。諸先輩各位のご一考をうながす所以である。頓首。」

 ─青木さんの赤ペン。

「頓首生の提言にしたがい、外に出て大戸を(腰には自信がないから)手で押してみた。

 なるほど、お説のとおり用心が怪しい。

 薪なら煙に巻かれたにしても、すぐ抜けて、逃げ遅れることなどないだろう。

 頓首生の腰だめしに敬意を表する。」

 四月十三日(月)晴        加藤

 八時、大熊、田中両氏を最後に全員退出。

 青木、曽根原両氏の「戸締り論議」を興味深く拝見。結論が出たようであるが、差し込みを「薪」とみるのはいかが?

 たとえ棒切れでも錠の一種である。

 そこで棒切れに紐をつけて吊るし、大戸の専属にすれば、使用後放置し、翌日新しいものを探す面倒もなくなり、棒切れも浮かばれようと思うのだが、どうだろうか?

 十一時、社内外を巡視、異状なし。

 十四日朝七時半ごろ、裏口の戸を叩く音におどろき、駆け下りたら、大工さんだった。


 ─大工さんは、倉庫のなかに住み込み者用の個室を造作するためにやってきたのだ。

 この日から一週間の宿直者は、朝の早い職人に叩き起こされるはめになった。

 加藤案の大戸専用の差込み栓も、余った木切れで形よく作ってもらえた。

    *

 そうして五月九日から山本公平の住み込みがはじまった。昼間は倉庫係の原島さんの下で働き、夜は倉庫の小部屋で寝る。

 日曜・祝日・メーデーは全休。

 月給五千四百円で家賃はむろん、電気代も不要。なんだかけっこう裕福な身分になった気持ちだった。

 翌日は日曜日だったが、田中さんは、印刷屋さんから届いた文庫の帯と売上カードを、製本屋さんへ渡すなどのことをして、午後三時過ぎに自宅へ帰った。

 公平は、明日からの仕事の場となる倉庫のなかを見て回った。

 大戸の土間から一段高くなった板張りの床に頑丈なつくりの作業台が置かれてある。

 卓球台ほどの台の右手は業務室とつながる通路からの上がり口で、台の背後と左手の壁面は天井までの本棚である。

 いや、「本棚」というのは当たらない。「本の押入れ」だ。

 四段に仕切られた棚は、奥行き約八○㌢、一段の高さ約六○㌢、どの段にも同じ書名ごとにまとめて積み重ねた本が、凸凹の山をつくってずらっと並んでいる。

 左手の本棚の裏側も倉庫で、路地に面して板戸が四枚並び、いまはそれが閉まっているので薄暗い。

 三方の壁面を占める棚の間にも両側から本の出し入れができる幅の広い棚が立っている。

 書籍、文庫全部で何百点、何万冊あるのだろう。

 無機質な物体のようなその本の山塊は、自分の小部屋の小さな机の上の本たちとは全然異質のものに見えた。

 夕方五時、今夜の宿直当番の加藤さんがやってきた。

「やあ、君が山本君ですか。加藤です」若い活力のあふれる率直な感じの人だった。

 歌は好き? と聞かれて、公平は、あっ! と思った。

 彼の出身高校は「二人以上集まったらコーラス」という校内生活の日常に音楽のある学校なのだが、上京以来、ほとんど歌ったことがなかった! と気づいたからだ。

 加藤さんが、カバンのなかから取り出した『青年歌集』の歌は、どれも知らない歌ばかりだったが、口伝えに教わっていくつも歌った。

 若者よ 体を鍛えておけ 美しい心が たくましい体に からくも支えられる 日がいつかはくる その日のために 体を鍛えておけ 若者よ

「いい歌詞ですね」

「そうでしょう。作者のぬやま・ひろしの本名は西沢隆二で、戦争中は牢屋に入れられたけど十二年間、転向しなかった人なんです。戦後、釈放されたときはひどい栄養失調でよろよろだったそうです」

「心も強かったんですね。心が体を支えるってこともあるんですね」

「ああ、そうか、そうだよな」加藤さんの顔にぱっと赤みがさした。

 五月十日(日)晴         加藤

 五時、出社。異状なし。山本君と話す。同君は家の事情で失学してしまったとのことである。このような人が当社で働くようになったことは非常によろこばしい。

 当社の仕事を通じて、同君を失学せざるをえなくしたような、このくされはてた世の中をたたきなおしてもらいたいものである。

「社会科学基礎講座」の愛読者カードを読みなおしてみたが、労働者読者の学問へのすさまじい意力に圧倒される。

 自分なんかうかうかしていると、これらの人びとに教えを乞うようになるのではないか。いま一度、ふんどしを締めなおす必要があるとつくづく思う。

 山本君と二人、青年歌集を手に大いに歌ったが、山本君のセンスのあるのにはいささかあきれた。たいていの歌を二、三度きいただけで覚えてしまう。

 十二時半、一時半、異状なし。たいへん眠い。


 ─この日から二十五日まではこれまでの当番どおりの宿直が続き、公平は毎夜、別々の人からいろんな話を聞き、いろんなことを教わった。たとえば─、

 業務部の鈴木さんは、昭和二十年三月十日の東京大空襲で家と家族を失い、一人だけ生き残った。何日か焼け跡をうろつき、上野駅で満員列車にもぐり込み、夜が明けた青森県の八戸で下りて、醤油の醸造工場に雇ってもらった。十六歳だった。

「いやあ、寒くて、寒くて、がたがたふるえながら町のなかを歩き回ってたら、大きい建物が目についてね。飛び込んで頼んだら、すごく同情してもらえて、助かったなあ」

 そう言ったあと、鈴木さんはふと顔にいたずらっぽい笑みを浮かべて、

「寒い、眠い、けむい。むいのつく日本語はこの三つしかないんだって。知ってた?」

「へぇ、知らなかったです。で、そのあとどうなったんですか」

「六年目に、八戸に居ることがおやじの弟にわかって、いまはその叔父貴の家に置いてもらってるわけ」

 A─書店への入社も、出版業界に顔のきくその叔父さんの伝手だったという。

 編集部の栗原・加藤さんの仕事は著者回りで、渡辺・曽根原さんは校正担当である。


「栗原さんって人はすごいよ。曽根原さんも、栗原さんと同じ二十六なんだけど、同じ年でこんなに優秀な人とは会ったことがない、と言ってたな」

 原島さんが、文庫本にグラシン紙を巻きながら、栗原さんの入社のいきさつをおしえてくれた。

 一昨年の春、三一書房が編集者を募集したとき、応募者は五百人を超え、試験会場として共立講堂を借りた。

 なかで断トツにすぐれて甲乙つけがたい青年が二人いた。だが採用枠は一人だけ、もう一人を不採用とするのは、あまりにも惜しい。

「あなたのところで、どうですか」と、三一の東京支社長の竹村一氏から話がきて、

「そのすこし前、編集の山鹿さんが清瀬の療養所に入院したばかりだったから、青木さんとしても願ったりかなったりだったんだ」。

 宿直当番の夜、栗原さんは、九時過ぎに外回りから帰ってきた。

 もうみんないなくなったあとだったので、公平が裏口の内カギを開けて迎え入れた。

 栗原さんに年を聞かれて、「十九です」と答えたら、「若いなあ!」とおどろかれた。

 その声に感嘆のひびきを感じて、公平は意外だった。

 ペンキ屋や牛乳屋に雇ってもらう前に、デスクワークの事務員になりたくて訪ねた会社では、若年を理由に断られることが何度もあったからだ。

「今日もまた、年が若い、と言われた。求人欄を見ても『二十五歳以上』ばかりである。二十五になるまで、ぼくは、いったい、どこで、何を食ってたらよいのだろう」と日記に書いたりしたのだった。

「きみは何が好きですか」「何って、なんですか」「スポーツとか、音楽とか…」「あ、小説を読むのが好きです」「おお、作家ではだれが好き?」「太宰治です」

 公平のへんじを聞いて、栗原さんはにっこり笑った。

「太宰にはね、三つの時代があると思うの。作品でいうと『晩年』の時代、『満願』『富嶽百景』『走れメロス』の時代、『ヴィヨンの妻』『斜陽』『人間失格』の時代です」

 会社でいちばんの年長者、渡辺さんは、四十がらみの温顔に丸い眼鏡をかけた、口数の少ない人である。

 日誌の記述にもその人柄があらわれているようだった。

 五月十六日(土)晴        渡辺

 一、田中、大熊両社員七時半ごろ退出。

 二、十時、十一時、十二時、見廻り、異状なし。

 三、十七日。私宅大掃除のために退出時間を一時間繰り上げし、午前九時、退出させていただく。─あとは山本社員に依頼。

 宿直制度最後の夜の当番は、大戸の戸締り問題の提起者、曽根原さんだった。

 五月二十五日(月)晴      曽根原

 ☆八時十分、田中、大熊両氏を最後に全員退出。

 ☆九時ごろ、山本氏の友人、現わる。暫時歓談のあと、三本因坊一堂に会したのを記念し、名人戦を行なう。

 ☆九時半、加藤氏より電話。明朝、宇高先生宅に立ち寄る。今、中央合唱団でねばっている、と。

 ☆十時ごろ、社長、帰社。五、六分後、退出す。

 ☆十時半ごろ、山本氏の友人、帰る。名人の決定はまた後日にゆずって……。

 ☆十一時、十二時、一時半、巡視。異状なし。憶えば、宿直制度の突っぱなが愚輩であった。そして今宵その幕を閉じようとしている。まったく感無量である。

 傍らで山本氏が明日からのことを考えているのか、厳粛なる面相をしている。願わくばすべて異状なからんことを─。


 ─ところが、その自分一人の宿直の、最初の夜を迎える前に、公平は早速、へまをやらかしてしまったのだった。

 翌朝、出社するなり社長の机の上に置かれた『宿直日誌』を読んだのだろう。「書いたぞ! 書いたぞ!」と叫びながら、曽根原さんが階段を駆け下りてきた。手に日誌を持っている。

 田中さんと堀井さんが土間のラビットを検分し、ハンドルが少し曲がっていると、堀井さんが修理屋へ運んで行った。

 昼ごろ、倉庫で作業をしているところへ、青木さんがやってきた。

「だから、昨日、頭をかかえていたのか。大丈夫か、なにかあったら、君のお父さんに申し訳ないからね」えっ? おやじ? あ、青木さんに手紙を差し上げたんだな。

 公平の父は、浄土真宗本願寺派の末寺の住職である。寺は鹿児島県・屋久島の永田という村にある。

 もともと門徒二百戸ばかりの貧乏寺だったのだが、戦後の世の中の窮乏のあおりでさらに困窮をきわめることになった。

 どこの家も今日ただいまの生活に追われて法事どころではなく、お布施ががたんとへったからだ。

 そんなさなか長く肺を病んでいた母が死んだ。父は、残された五人の子ども(長男の公平の下に四人の弟妹)をかかえて苦労を重ねながら、公平の高校進学を支え、上京のさいには汽車賃のほかに五千円もの金をつくってくれたのだった。

 そして東京在住の出郷者のだれかれに懇々と息子のことを頼む手紙を書いた。

「おまえのおやじさんには泣かされるよ」と、石井先生がおっしゃったことがある。分厚い封書を手にされて─。

 青木さんにもきっとそんな手紙が届いたのにちがいない。

    *

 倉庫のもっとも主な仕事は、返本の整理・修復と受注本の品揃えである。

 毎朝、表口の文書受けには取次ぎ各社の注文カードの束がどっさり入っている。

 業務部の女性の谷口さんと佐藤さんが、それを仕分けて本をそろえ、納品伝票をつくり、午後から取りにくる相手に渡す。

 業務室の片側の壁面に設置された本棚には書籍、文庫が全点、何冊かずつはそろえてあるのだが、足りなくなると、小走りに倉庫へやってきて、「現代日本の歴史、経済学入門、お願い」とか「蟹工船三部、わが文学半世紀五部、ね」というようなことになる。

 倉庫の棚のどこにどの本があるのか、すっかりおぼえてしまうまでは、原島さんに教えてもらいながら、いわれた本を(棚の高いところのは脚立をつかって)取り出し、業務室へ運ぶ。午前中はほとんどその作業にかかり切りだった。

 午後になると、取次ぎ各社からの返本が持ち込まれる。

 オート三輪や軽トラックから投げ下ろされる、荒縄でくくられた本の束を一冊ずつ伝票と照合し、受取印を捺す。

 縄をほどいた書籍のカバーや文庫のグラシン紙を新しいものと取り替えて、棚に入れる。ページが大きく折られた、落丁や乱丁のヤレ本があったら、検印紙を剥がし、余分に刷った本を棚から持ってきて、奥付に貼る。

 本棚と作業台の間に据えた折りたたみ椅子に腰かけてやるそうした作業は、雑談の時間でもあり、けっこう楽しかった。

 原島さんは、奥さんの実家の、岩本町の衣料問屋に同居している。

 二年前、大学の経済学部を卒業し、遠縁に当たる青木さん経営のA─書店に入った。シナリオライターになるべく、週末は欠かさず師匠の映画脚本家の家に通っている。

 外人のように脚が長く、ハンサムな青木さんについての原島さん情報─。

「若いころは、あんないい男、見たことないと、親戚中の評判だったそうだよ」

 横浜の専門学校を出て、主婦の友社に入社、戦争中は従軍記者で中国に派遣されたこともある。

 戦後、先輩の編集者が設立した家庭雑誌の出版社をしばらく手伝って、A─書店を創業した。一九四六年、二十八歳だった。

 当初の五年間は、いまは編集室になっている二階が家族の住居で(二人の女児がそこで生まれた)、一階が編集、営業合わせて四人の仕事場だった。

 青木さんの編集者としても経営者としてもすぐれた力量は、五年のうちに単行本を数十点出し、文庫を創刊し、小石川に家を建て、社員を三倍にふやしたことなどに如実に現れているようだ。

 当社の看板図書『資本論』の訳者が、第一巻の序文に記した結びのことば─。

「出版については、A─書店社長、青木春雄氏が異常な熱意をもって事に当たっておられるので、読者諸氏は充分の満足を得られるであろうと信ずる。

 一九五一年六月末     長谷部文雄」

    *

 会社の前の道を左へ約五〇㍍歩くと、白山通りにぶつかる。都電35番線が走っている。

 通りを渡った角に中華主体の食堂「維新号」がある。朝九時には開いている。

 朝、最初に出社してきた人と入れ替わりに維新号へ行くのが、公平の一日の始まりである。

 食べるのは、たいていハムエッグ・ライスか、福神漬けがのっかったカレーライス。どちらも八○円でみそ汁がついてくる。

 昼は、業務の人たちの注文もとって、維新号のわきの道の一ブロック先にある肉屋へ自転車を飛ばし、揚げたてのコロッケをコッペパンに挟んだやつ(二〇円)か、一個一〇円のジャムコッペ、バタピーコッペを仕入れてくる。ときにはラーメン(三○円)か、そば(もり、かけ二○円)の出前をとる。ラーメンは維新号から、そばは三崎町の「長寿庵」から─。

 鈴木さんや堀井さんが倉庫にやってきていっしょに食べることもある。

 昼休みには曽根原さんのいう西洋羽根つきバドミントンの仲間に入る。

 コートはむろん路地、ネットは倉庫の大戸の上から石合さん宅の格子窓の庇に差し渡した物干し竿だ。

 夕方。直接注文の本の小包を、自転車の荷台にくくりつけたポリ箱に積んで郵便局へ運ぶ。

 小包の全部に切手が貼ってあったら距離の近い小川町郵便局へ、雑誌『平和』のような料金別納のものがあるときはすこし遠い九段郵便局へ─。

 そして、会社にだれかが残っているうちに維新号に行って、晩めし。

 ラビット事故の翌日もそんなふうに過ぎて夜になった。

 五月二十七日(水)晴

 八時半、田中さん、大熊さん、退出。田中さんは、もしかしたらまた社に戻り、泊まることになるかもしれないと言い残して─。

 十五分後、社長、退出。いよいよ一人だけ残されることになった。

 日誌は、毎日、同じ者が同じ調子で下手な字で、異状なし、異状なし、と書き続けることになるのでしょうが、どうぞきびしくチェックしてください。ともすれば「異状なし」に馴れてルーズにならないためにも─。

 十二時十分、屋外を見回る。石合さんちの中学生がねじり鉢巻きで机に向かっているのが、開いた格子窓から見えた。中間試験の最中なのだろう。

 うとうとしかけたころ路地に靴音。外へ出てみる。中学生はまだがんばっている。田中さんはもう戻られないだろう。

 一時半、就床。

 ─以後の宿直日誌は、公平の青臭い作文練習帳のおもむきを呈するようになっていき、それにいちいち青木さんの赤ペンが丁寧な感想を述べている。たとえばこんなふう─。

〈「朝寝をするな」というのは道学者流の教戒である。彼の朝はラジオ体操のごとく溌剌として健康である。

 ところが、ここに「世の中のこと何一つ思いのままなりたるはなし」といったかなしき詩人あり、朝寝は彼の貧しい生活における唯一の享楽であるとしよう。

 道学先生にはそれが通じない。彼の弁明は先生の理解をえることはできない。

 目さまして猶起き出でぬ児の癖は かなしき癖ぞ 母よ咎むな 石川啄木「一握の砂」。

「かなしき癖」は詩人の無力な反抗であり、道学先生の正義はそれを否定する。

 そして「世間」は常に道学者の味方である。それが当然であり、それでよいのだろう。

 では、凡愚俗物の単なる怠け者はどう弁解したらよいのだろう。にやにや笑いながら、「まあ、そうおカタイことおっしゃらずに……」。これである。

 以上、眠気ざましの稚拙な一文は、朝になれば悔恨の種になる、意志薄弱児の独り言であります。

 十時半、間違い電話。「コンドーさんですか」「いいえ、ヒジカタです」。見回り異状なし。

 十二時、異状なし。十二時十分、田中さん帰社、二階に泊まる、と。

 三十日午前七時、『平和』の池田さんに起こされる。爽快な朝である。〉

《爽快な朝であったのはなにより。詩のわからぬ俗人はある面では不幸かもしれぬ(これは客観)。

 詩のわかる人間は幸せである(これは主観)。

 だが詩がわかりすぎると神経の消耗をきたして不幸かもしれぬ(これは客観)。

 神経を衰弱させぬ点においては俗人のほうが幸福であろう(これは主観)。

 こうみると、幸福は自覚の所産であり、不幸は傍観から生まれるという「幸福論」の域を出そうもない。

 主観の産物である幸福論はある意味ではマスターベーションだろう。

 「意志薄弱児」にはこのくらいの楽しみがなければ不公平に違いない。

 だが詩がわかっても神経の消耗を来たさない人間もある。これが最も幸せなんじゃないかな(客観的にもそういえそうだ)。

 てなことは、プラグマティックな反詩人観になるかしらん。

 あるいは「健康な常識」を第一義にかかげる「道学者」流かな。

 いずれにせよ、「悲壮」感と「憂愁」癖と「深刻」型と「煩悶」ポーズと「悟り」志向と、そして「センチメンタリズム」は、日本人の青年に多くみられる特性で、好んで「悲劇」や「苦悩」「不安」を求める哲学は、ニーチェ、シェストフあたりの「幽霊」のシッポに心臓を撫でられているようだ。

 マルクス哲学は「不安」を消しさる、肚のすわる哲学だと思う。つまり死に場所の決まった安定感が全生活をおおう。

 私はそう信じている。そういう生活を少しずつ築いていると思う。》

〈ひとりよがりのおろかしさに気づいて、ものをいうのがイヤになりました。

 いびつな妄念に対するご感想を読まれた方々が、「君、これ解る?」と同情してくださる。「わかんなくて弱っちゃうんです」と困惑の表情よろしく答える。

 そう答えると、相手が満足してくれるだろうというさかしげな世渡り方便のつもり…。

 教訓。大人ぶるなかれ。少年になろう。少年の純真、明朗、生一本。

 手始めに座右のデカダンの書を捨て、かわりに警視庁警邏交通部編『道路交通取締法令集』。少年は、にわかにラビットの免許がほしくなった模様である。

 だんだん変になりました。どうも夜はいけません。思いもしないことをひょいひょいと書き、収拾がつかなくなります。

 字が下手くそなせいか、ペンをとると莫迦に力み返って、一字も書かぬうちにことばがつぎつぎ飛び去り、なんにもなくなって頭が空回りし始める。

 少年よ、まず深刻癖を去れ。無学を恥じるなかれ。

 いや、いたずらに無学をひけらかすな。無知をてらうな。わざとらしい阿呆づらはみにくい。無意識の無知、これはよい!

 痴呆の美、ホントの無邪気。

 どうも、いけません。寝ます。十二時四十分、異状なし。〉

《あまり神経をいじくる勿れ。

 小生の雑感は、あながち君にばかり宛てたものでなし。「必読文献」でもなければ、まして「謹々必承」の詔書などであろうはずがない。軽く読んでもらいたし。

 まだ山本少年の本質はわからない。

 いまのところ、書くことと本性とが、はたして同一人物かうたがわしいと思っている程度。案外、口ほどではない、あるいは頭ほどではない、少年のハートをもっているのではないか─とも思う。

 いずれにせよ、この一、二年(世俗的に)苦労したわりに純情な少年らしいと、西田編集者にも言ったところです。

 もっとその日その日を気楽に働いてください。セッカチに結論をいそぎ、自己変革をもとめるのは、余分な副産物をもたらしがちなもの。ゆっくりやりましょう。》

    *

 ある日の朝、原島さんが、顔を合わせるなり言った。

「きみ、インフェリオリティ・コンプレックスって知ってるか」「劣等感でしょう」

 それは高校のとき、公平が提出したひねくれた作文に対する、教師の評言のなかにあった「inferiority complex」がわからず、コンサイスをひいて知ったコトバだった。

 知って、子どものころから自分を呪縛しつづけている潜在意識を言い当てられたと思った。

 子どものころの公平にはいつも心の底にわだかまっているなやみが三つ、あった。

 一は父の職業、二は出べそ、三はひんがら目、である。

 半農半漁の村の小学校の同級生で、寺の子はむろん自分一人だけだ。

 父が「ぼんさん」と呼ばれるのがイヤだった。

 学校に出す何かの調査表の保護者の職業の「僧侶」という文字が奇妙に恥ずかしく、友だちと同じ「農業」とか「漁業」だったらいいのに……と思ったことを憶えている。

 出べそをかくすため、上半身裸になる体操の時間や川で泳ぐときは、サルマタをしっかりへその上まで引き上げた。

 ひんがら目(僻目の転訛?)は、斜視を意味する屋久島弁である。

 友だちと遊んでいるとき、道を歩いているとき、教室で先生の話を聞いているとき、朝のお勤め(読経)をする父の後ろに座って掌を合わせているとき、ごはんを食べているとき、とにかく、いつでも、どこでも、突然、片方の目玉がキョトンとそっぽを向いてしまう。

 間欠性外斜視と呼ばれる性癖である。

 自分ではまったく気づかず、瞬間的に起こるのだから、どうしようもないのだ。

 学年が上がるにつれて、家が寺で父が「ぼんさん」であることにはいつしか馴れてきたし、出べそも中学のころには引っ込んで小さくなった。

 しかし、ひんがら目だけは、いまもしぶとく居座っている。

 どんなときに目玉が勝手に動きやがるのか。どうも、頭の中にふと何かが浮かんだり、想ったりするその瞬間、目玉もいっしょに連動するようなのだ。

 人と対面していて、別段面白いしぐさをしたり、しゃべったりしたわけでもないのに、相手がおかしそうに笑い、「あ、またやったんだな?」と気づくことがある。

 それは彼ないし彼女のことばに触発されて別のことを連想した瞬間だと、わかる。わかったからといって、防ぐことはできない。

 せいぜい、写真にうつるときなど、二つの目をまっすぐカメラに向けるよう気をつけるくらいである。

 ともあれ、人見知り、引っ込み思案、消極的、内向的な公平の性格は、子どものころからのそうしたコンプレックスによって醸成されたもののようである。

 東京では、新しいコンプレックスが二つ、ふえた。一はなまり、二は屋久島である。

 東京弁と鹿児島弁とではアクセントがまるで違う。発音も違う。

 アクセントは、日常の会話のなかで人の言葉に耳をすまし、神経を集中して聴くことでおいおい習得していったが、最後まで難渋したのは、発音の「セ」だった。

 鹿児島弁だとこれが「シェ」になる。先生が「シェンシェイ」、山の手線が「山の手シェン」になってしまうのだ。

 なぜ、そうなるのか。舌をまっすぐ伸ばしたまま「セ」というからだ。舌先を上の歯茎にくっつけるようにし、「スェ」という感じで発音すれば「セ」になる。

 この発声法を発見して、ことば関係のコンプレックスはおおむね解消したが、屋久島のほうはそうはいかなかった。

「いなかはどこ?」すこし親しくなると聞かれる、この質問に「鹿児島県の屋久島です」と答えると、たいていの人が一瞬、とまどうようである。初めて耳にする地名だからだ。「へぇ、ずいぶん遠くから来たんだね」という相手の口調に微かな軽侮感がにじんでいるように感じるのは、あながちひがみではないと思う。

「それ、日本の島なのか」とか「江ノ島よりか大きいのか」といわれたりもする。冗談口調ではあるが、バカにされてるように感じる。そんなわけで、「屋久島」は禁句、「鹿児島です」とだけ答えるようになった。

「きみはもう学校へは戻らないのか」

「ええ、戻れそうもないですね。でも、いまはここが『私の大学』です」。


 夏がきた。

 七月二十九日(水)晴

 七時十分、田中さん、大熊さん、退出。この人たちが最後だ。

 八時半、速達二通届く。

 九時二十分、民芸の人が見える。招待券をことづかる。「社長によろしくお伝えください」。『フォスター大佐の服罪』一部ほしいといわれ、八掛け百十五円でおわけする。お金は大熊さんの机の上におく。

 安東次男氏のアドレスをきかれたが、私にはわからない。「では、明日にでも電話します」とのこと。

 十時半、屋外を巡回。外はとても涼しい。電車道のほうはまだだいぶ人通りがある。

 外に出ると涼しいから暑さを感じるたびに「屋外を巡回」ということになる。

 十二時、異状なし。

 ─青木さんの赤ペン。

「旧倉庫の手入れのさい、ついでに山本君の部屋のガラス窓を開閉できるようにしてもらおう(この件、田中君、善処されたし)。

 さらに暑さがしのぎにくいときは、二階で寝るようにしたらよい。自分の体験からして、蚊帳いらずの暑さ知らずなり。ただし、真に寝入るときは窓を閉めること。」

 七月三十日(木)晴

 二階に寝床を移すほどのことはないと思います。窓が動くようになるのは、とてもうれしいです。

 でも、動かなきゃ動かないでもいいのです。はじめはちょっと気になりましたが、いまはもうなれました。

「窓の開かない二畳の部屋」、この文句はひそかな散文的感興をまんぞくさせてくれるようです。

 狭い部屋ではある。

 しかし、私はこれまで自分が居住したどの部屋よりもつよい愛着を感じている。二畳の空間いっぱいに「自由」があるからです。

 ここには口うるさい下宿のおばさんもいない。足音重々しく廊下を歩く舎監の教師もいない。どんな本を読んでも、意地のわるい干渉をする上級生もいない。

 三ヵ月前、私は麻布十番の牛乳屋にいた。朝は五時に起きた。夕方の仕事じまいは七時過ぎだった。

 店の裏手の台所の横の狭い台で三人ずつ立ったまま食べるめしは、ねまった(腐った)においがした。

「ごちそうさまでした」に、「よろしく願います」と女中さんは答えた。

 臭いめしのさいごの一塊をかっ込むなり、後ろに待っている者に席をゆずり、空になった茶碗と箸を流しに持って行き、水道の水を茶碗に受けて飲んだ。

 その牛乳屋の最初の夜。

 十畳の部屋に、十二人の店員が、てんでに自分の布団をのべるのを、部屋の隅に突っ立って見ていたら、自分の布団を敷くスペースが残ってなかった。

 左右両側から六個ずつ黒い頭が中央に集まった光景を、心細く茫然と眺めた。あのときの気持ちを忘れるまいと思う。

 この部屋は、狭い。だが、この部屋にはいっぱい「自由」がある。

 いくら吸っても吸い切れない、自由な空気が充満している。

 窓は、動かなきゃ動かないままでもいいのです。

    *

 八月。『資本論』全三巻と文庫版十三分冊の刊行が完結した。

 九月十八日、長谷部文雄先生が、四国・今治市から上京されて、一ツ橋の如水会館の一室で「完結記念の夕べ」が開かれた。

 Tの字形にしつらえたテーブル席の正面に、主賓の長谷部先生を挟んで親しい経済学者と助手の先生の四人、左右から向き合う席の上座にご招待の印刷・製本の関係者八人、つづいて社長以下A─書店全社員が居並ぶ記念写真が、後日、みんなにくばられた。

 写真の裏面には、長谷部先生の流麗な墨筆で認められた一首─。

 たとりつきし峠をこえて 遥かなる嶺のあたりに夕陽ただよう

 コンソメ、パン、サラダ、ビーフシチューという西洋料理を、スプーン、ナイフ、フォークで食べるのは初めての体験だった。左どなりの原島さんの手元を見ながら食べた。

 飲み物は、男はビール。アルコールがまったくダメな青木さんと女性たちと未成年の公平は、バヤリース。

「一口、飲んでみるか」原島さんがいった。

 透明なコップのなかできれいな琥珀色の液体がふつふつと泡立ち、小さく生きているように見えた。(了)
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マルさん

傘寿の習作。勇を鼓して投稿。
by マルさん (2015-05-12 12:41) 

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