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ベートーベンになった話 [雑感小文]

平成養生訓18

 ベートーベンになった話

卯の花腐し(うのはなくたし)。

梅雨前の5月の後半ごろに降る長雨をそう呼ぶと、歳時記にあります。

情調の感じられる言葉です。


病み呆けて泣けば卯の花腐しかな   石橋秀野


長い連休が明けて、はっきりしない天気がぐずぐず続いていた日々、この季語が幾度となく頭に浮かびました。

「腐ったのは花ではない。おれだ」と思ったりもしました。

5月11日の朝、目覚めて寝床に体を起こしたときのことです。

左耳がボアーンと詰まっている感じでした。ヒコーキなどで同じ症状が生じたばあいの解消法(口を閉じ、鼻をつまみ「ウッ」とやる)を試みたのですが、直りません。

このときは聴力はまだいくらか残っていました。

が、時間と共にどんどん低下、夜には完全な聾状態に陥りました。

翌日、耳鼻咽喉科の専門病院を受診。

頭部のCT、聴力検査などのあとの問診(医師が紙に記す質問に口で答える)で、「めまいは?」と聞かれました。

メニエール病を疑ったのでしょう。

「なかったです」と答えました。

「原因は何でしょう?」と質問したら、先生は、頭をひねり、紙の上に???と疑問符を3個並べました。

「がんとの関係は?」とたずねると、「それはない」と、胸の前で両手を交差し、元に戻しました。

原因不明ながら、連続12日間の「混合ガス治療」と神経賦活剤の点滴治療を即刻開始することになりました。

混合ガス治療とは、純酸素に5%の炭酸ガスを混ぜたガスを吸入し、内耳への血流を増やす治療法だそうです。

しかし、治療の1単位が終っても聴力は回復せず、今も完全な失聴状態が続いています。

病名は「急性感音難聴」、原因は不明と言われました。

普通、片耳が障害されても、もう一方の耳が健全なら、さほど不自由は感じないものです。

私自身、十数年前に右耳の「高度感音難聴」に見舞われて以来、左耳だけで暮らしてきました。

しかし、その左耳もダメになったのですから、万事休すです。

頭の中のセミしぐれのほかは、周囲は全く無音の世界。音を消したテレビの画面を見ている感じです。

対面する相手が何か言っても、さっぱりわかりません。

相手はいちいち紙に書いて示さねばならず、こちらはそれを一読、口でしゃべればいいので、全然世話なし。

いま夫婦ゲンカをやれば完勝、疑いなしです。

ところで、私はもう一つ病気を持っていて、ことしで7年目の前立腺がん患者です。

故三波春夫さんは同病の先輩、1歳年少の陛下は恐れ多いことですが後輩に当たります。で、かねがね「歌のうまい人と高貴なかたがかかるガンなのだ」と軽口をたたいてきました。

そこへこんどは聾が加わったのですから、三波春夫+ベートーベン(晩年は全聾でした)というわけです。

ま、人間、長生きしていると、いろいろな目に遭うのは仕方がありません。

一時はかなりおたおたと気弱くあわてたりもしましたが、また、この先どんな展開になるのかもわかりませんが、たぶん大丈夫。

自分なりに生きていけるだろうと思います。

だって街では盲目の人が白い杖をついて一人歩きしているではありませんか。

車椅子電車の乗り降りをしている人もいるではありませんか。

自分はほとんど健常人だと思うのです。

耳が聴こえないぐらい何も恐れることはない。恐れなければならないのは心の声の聾者になることだ。そう思うのです。

(株)心美寿有夢のPR誌『絆』19号=2006年72月発行=より再録>
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昼寝達人になろう [医学・医療・雑感小文]

 平成養生訓16

 昼寝達人になろう 

老いぬれば何は扨措(さてお)き昼寝かな (福岡市)奥西邦夫 

 数年前の夏、新聞の俳句欄で見つけた句です。

ああ、いいなぁと感じ入り、すぐさまノートに書き留めました。

飄々たる人柄の察せられる俳諧味もさることながら、かねがね「趣味は昼寝。特技は後ろ歩き」と言いふらしてきた者としては、まさに我が意を得た思いもありました。

 昼寝は絶好の健康法。

このことを否定する専門家はいません。

先年、世界睡眠学会の一分科会のテーマに「昼寝は是か非か」が取り上げられたが、討論が成立しなかった。

全員が昼寝賛成、反対意見なしだったからだそうです。

年をとれば、だれでも眠り下手になります。

足が弱くなったり、忘れっぽくなったりするのと同じことです。

寝つきが悪く、眠りが浅く、夜中に目が覚め、朝早く目が覚めます。

これを補うには上手な昼寝がぜひ必要です。

厚生労働省の「健康づくりのための睡眠指針」でも、

「眠気が生じる午後2時~3時、短い昼寝によるリフレッシュ」が勧められ、

「夜眠れない高齢者が昼寝と夕方の散歩で改善した例」が多いと解説されています。

「活動的で、趣味などに意欲的に取り組んでいる高齢者ほど昼寝をしている」といわれ、昼寝をしている高齢者は、していない高齢者に比べると、認知症(アルツハイマー病など)の発症率が5分の1ほどに抑えられていることが、厚労省の調査でわかっています。

昼寝がなぜ、認知症を防ぐのに役立つのでしょうか。

「高齢者は、よく眠ったつもりでも睡眠の質が悪く、そのため大脳の認知機能に影響を及ぼし、認知症の発症リスクが高まる。

昼寝はそうしたリスクを低下させる」と説明されています。

ただし、1時間以上も眠るのは逆効果。

体が本格的な睡眠態勢になって目覚めたあと頭がボーッとしてスッキリしません。

夜の眠りにも差し支えます。

認知症の発症リスクもかえって高くなるといわれています。

過ぎたるは及ばざるがごとしというわけです。

もちろん、昼寝がいいのは高齢者だけではありません。

昼寝をすることによって、交通事故などの発生率が低下、作業効率や判断力が向上する─このことは、多くの実験や産業医学的調査で確認されています。

睡眠科学に詳しい広島大学総合科学部の堀忠雄教授は、

「昼寝にはまず血圧を下げるという効果があります。

夜間の睡眠時ほどは下がりませんが、昼寝をすると確実に血圧が低下し、リラクゼーション効果が生まれます。

脳梗塞などの危険も低くなります」

と、話しています。

堀教授らによる昼寝の効果を確かめた実験では、午後2時から約20分の仮眠をとった学生は、計算能力や音の聞き分けなどのテストの成績が、午前中よりもアップした。

が、仮眠をとらなかった学生の成績は変わらなかったということです。

高校生を対象に昼寝の効果を調べた研究もあります。

内村直尚・久留米大学医学部教授(精神神経科)らは、久留米市の名門校、県立明善高校で昼休みに15分間の「昼寝タイム」を設定、約1カ月半試行しました。

結果、仮睡をとった生徒のほうが「授業に集中でき、期末試験の成績が向上した。勉強にやる気が起こった」と報告されています。

同じような昼寝タイムを職場に導入すれば、午後の仕事の能率アップに役立つでしょう。

昼寝からスッキリ目覚めるコツは、寝る前にコーヒーかお茶を飲むことです。

そうすると、カフェインが吸収されて効いてくる時間(約30分後)に、タイミングよく目覚めて、眠気が残りません。

目覚めたら冷たい水で顔を洗い、柔軟体操をして体をほぐせば心身ともにシャキッとします。

昼寝上手は元気の達人。昼寝達人になりましょう。

(株)心美寿有夢・企業情報誌『絆』17号=2005年12月発行=より再録>          

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血圧の諸問題=2(朝の大波・酒と血圧) [医学・医療・雑感小文]

血圧の諸問題(2)

 朝の大波

 高血圧をきちんとコントロールしないと、動脈硬化が進み、脳卒中や心臓病を引き起こす。

 それはよくわかっていながら、目標値まで血圧を下げることができない人がとても多い。

 大きな理由は、高血圧は無症状だからだろう。

 痛くもかゆくもないし、めしも酒もうまいから、つい食べ過ぎたり飲み過ぎたりする。

 医師の指示どおり薬を飲まなかったりもする。

 こうした人たちの多くにみられるのが、朝の血圧が異常に高くなる「早朝高血圧」だ。

 朝、目が覚める前後に急上昇する(モーニングサージ=朝の大波)タイプと、夜も血圧が下がらないままなだらかに上昇するタイプ(持続型)がある。

 どちらも日中、病院で血圧を測ってもらうころには、安定しているので、医師も見過ごしてしまいがちだ。

 高血圧と診断されていない人たちの中にも、早朝高血圧の人が多いし、降圧薬を服用している人の50%以上が早朝高血圧だったという研究報告もある。

「家庭血圧の測定が大切。自分で血圧を測って早朝高血圧の早期発見を─」と専門医は勧めている。


 酒と血圧


 寒い日は血圧が上がる。酒を飲み過ぎると、さらに上がる。

 で、冬の朝は、血圧関係の事故が起こりやすい。

 飲み過ぎた翌朝、血圧が上がる理由は、こうだ。

 体にアルコールが入ると血管が広がって血圧が下がる。

 酒の量が多いとその下降幅がさらに大きくなる。

 朝になると、自律神経の働きが活動型の交感神経優位に切り替わり、血管が収縮し血圧が上がる。

 夜の血圧の下降幅が大きいほど、夜と朝の血圧の落差の大きい「早朝高血圧」が生じる。

 そうした悪影響をもたらさないアルコールの適量は、一日30ミリリットル以内(女性はほぼこの半分)

 ビールなら中びん1本、日本酒は1合、ウイスキーはやや濃い水割り1杯、焼酎は64お湯割り2杯、ワインだったらグラス2杯といったところ。

「酒&血圧日記」に飲んだ量と血圧を記録していると、飲み過ぎた翌朝には血圧がてきめんに上がることに気づき、酒と血圧の因果関係がよくわかる。

 怖くなって酒を控えるようにしたら1週間ほどで血圧が下がったといった実例が少なくないそうだ。

 自己管理は最良のクスリの一つだ。


 血圧の誤解


「上は160だが、下が70だから、まぁまぁじゃないか」と、自分の血圧について、同年の(つまり老齢の)友人が言った。

 そうした誤解をもつ人はけっこう多いようだ。

 上すなわち最大(または最高)血圧は、心臓が収縮して血液を動脈に送り出したときの動脈壁にかかる圧力で、収縮期血圧という。

 下すなわち最小(最低)血圧は、心臓が拡張して血液が心臓に戻ってくるときの動脈壁にかかる圧力で、拡張期血圧という。

 至適血圧は、上が120mmHg未満、下が80mmHg未満だが、動脈硬化が進むと当然、血圧は高くなる。

 高齢者で140─90未満だったら上々だ。では、上が高くても下が低かったら大丈夫なのか? そんなことはない。

 血圧の「上(最大)」と「下(最小)」の差を「脈圧」、脈圧の3分の1の数値プラス下の数値を「平均血圧」といい、血管の状態を判定する指標とされる。

 脈圧は、心臓に近い太い血管の硬化度を示し、正常範囲は40~60。

 平均血圧は、末梢の細い血管の硬化度を示し、理想は90未満だ。

 上が160─下が70だと脈圧は90、その3分の1(30)を70に加えると、平均血圧は100になる。

 ちょっとヤバイ状態と言わねばならない。


 百歳の血圧


 心臓に近い太い血管で動脈硬化が進むと「脈圧」の数値が大きくなり、末梢の細い血管で動脈硬化が進むと「平均血圧」が高くなる。

 高齢者の場合、特に脈圧が大きくなるのが普通だ。

 年をとると上は高くなるが、下はそれほどでもなく、むしろ低くなることが多いからだ。

 ところが、東京都老人総合研究所の研究調査によると、センテナリアン(百歳老人)の場合、上は年齢相応に高いが、下は低くなく、脈圧はあまり大きくない人が多いという。

 太い血管の動脈硬化の進行が遅いことを示しているわけだ。

 また、下の血圧の高い百歳老人ほど知能指数が高く、痴呆になる確率が低いという。

「上は高いが、下は低いからまあまあ」とは言えないわけだ。

 毎度の口上だが、動脈硬化の進行を抑えるには、適切な食生活と適度の運動。

 肉も魚も卵も牛乳もバランスよく食べて、よく歩くようにしよう。
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血圧の諸問題=1(低血圧・高血圧) [医学・医療・雑感小文]

血圧の諸問題(1)

低血圧問題

冬は、高血圧の人にとっては危険な季節だ。

寒冷刺激で血管が収縮すると、高い血圧がさらに高くなるからだ。

一方、低血圧の人は、低過ぎた血圧が上昇するので、むしろ体調がよくなる。

高血圧(最大血圧140mmHg以上─最小血圧90mmHg以上)と、低血圧(最大血圧100mmHg以下)、どちらが問題かといえば、高血圧のほうだ。

医学的に低血圧が問題になるのは、血圧が低いためにさまざまな症状に悩まされたり、低血圧による異常がみられる場合だ。

これといった症状がなく、ただ血圧が慢性的に低いだけなら、とりたてて問題にしなくてもよい。

だが、程度の差はあるものの、なんらかの自覚症状につきまとわれている人が少なくない。

最も苦痛に感じる症状は、めまい、易疲労(疲れやすい)、頭痛、動悸(どうき)、食欲不振、肩こり、不眠など。

寝起きが悪い、耳鳴り、胃もたれ、便秘を訴える人も多く、

健康状態を気にし過ぎる」のも、低血圧の人の特徴だと専門医は指摘している。

体に気をつけるのは大切なことだが、度が過ぎるとかえってマイナスに働くことがある。

体のことは、体にまかせるぐらいの楽天的な気分を、低血圧の人にはお勧めしたい。

実際、長寿者の多くは低血圧であることが知られている。

わが故郷、屋久島・永田には「がんない千年」なる俚言がある。

「がんない」とは、弱弱しいといった意味。

「贋萎え」の訛語だろうか?

年中、あっちが痛い、こっちが痛いとぶつぶつこぼしていても、けっこう長生きすることを言い当てた名言?だとおもう。

のんびりいくべえ!


高血圧問題

低血圧の人は、体の不調をかこつことが多いが、高血圧の人は、一般に症状の出ないうちは元気旺盛で、活動的な人が多い。

最大血圧が200mmHg前後にも上ると、頭痛、肩こり、めまいなどの症状が出てくる人もあるが、160やそこらでは何の症状もないのが普通だから、つい油断してしまう。それが問題だ。

元気旺盛な活動家タイプなので、いきおい食事なども早食い大食型になりがちで、肥満を招いてしまう。

肥満すると血圧はさらに上がり、脳卒中、心筋梗塞、糖尿病、痛風などの誘因になる。

高血圧の人はこうした病気によくよく気をつけなければいけない。

半面、高血圧の人は、感染症やがんには強い傾向がみられるという。

例えば結核にかかりにくく、かかっても比較的よい経過をたどることは、よく知られている事実だ。

がんに強いというのは、

1 高血圧は動脈硬化を促進する。

2 動脈硬化の進んだ人は、脳卒中や心臓病になりやすく、がんになるまで長生きしにくい。

3 故に、高血圧はがんに強い、ということのようだ。

いささか科学的根拠に乏しい、あまりうれしくもない三段論法か。
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神様とファイト [医学・医療・雑感小文]

神様とファイト

「私が今、侵されている病気の名前、病名は......ガンです」

 1993年9月6日、日本テレビのホールで行われた緊急記者会見。

 人気絶頂のキャスター、逸見政孝さんは、心中の煩悶を断ち切るようにきっぱりとそう言った。

 そして、東京女子医大消化器病センターに入院、10日後の9月16日、同センター所長・羽生富士夫教授らによる13時間にも及ぶ大手術を受けた。

 術後、一時は歩行訓練を行い、好物のたこ焼きを食べるなど順調な回復ぶりが見られた。

 が、10月23日、腸閉塞を起こし、以後は絶対安静、絶食(栄養点滴)、抗がん剤投与...と続くなか病状は急速に悪化、12月25日、死去した。

 たちまち、その手術に対する否定的言説が巻き起こった。

 そのころ教授に面接取材する機会があった。

 本題の話が終わった後、ぶしつけとは思ったが、聞いてみた。

「(逸見さんを)救えると信じておられましたか?」

「当たり前だ!」

ものすごい形相だった。

 自著「胃の手術を受ける方、受けた方へ」(主婦の友社)の中で教授は、こう述べている。

「私はよく、大手術を前にした患者さんに、『手術は100%救命をめざし、最善を尽くします。でも、その先は神様が決めること。自分は絶対に助かる側に入っていると信じるしかありません』と話します。

 医者と話し合った結果、『よーし、この病気と徹底的に闘ってやる、絶対に勝ってみせる!』というファイトがわけば、もう治療の行程の何分の一かを通過したようなものだと思います」

 うーん、神様と患者のファイトが頼りなのか?

 消化器外科の名医として知られた人の言葉は、あるいは多くの医師が思うことであり、医学・医療の限界を告知する言葉であり、生命の本質に触れる言葉でもあるだろう。

 そのうえで、教授はこう書いている。

「残念ながら胃ガンは、手術以外の治療法で根治可能なガンとは発生も性質も全く異なるものなので、現段階では〈切除〉以外に根治療法はありません。

 切除以外の治療法に飛びつく前に、ほかにいくつか病院を受診して複数の医者の意見も聞いてください。

 切除で治る段階だったものを、みすみす時期を逸し悪化させる例が少なくないからです」

 これは胃がんに限った話ではない。

 手術や抗がん剤や放射線を避けて、ほかの治療法に頼り、致命的な逆効果を招いてしまった。

 長年、絶えることなく聞く話である。

 そのもとにあるのはたぶん、その人が過去に見聞きした、がん治療への不信感だろう。

 だが現代医学は確実に進歩している。

 先入観にとらわれず、固定観念に縛られず、専門医を受診しよう。
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たれ目・肩こり即効療法 [医学・医療・雑感小文]

平成養生訓28

 たれ目肩こりテープで治る


パソコンとか編み物などで長時間、目を酷使していると、目の奥が痛くなり、肩や首がこり、頭が痛くなったりもします。

「それを〈眼精疲労〉といっていますが、本当は〈瞼精=けんせい=疲労〉と呼ぶべきです。

まぶた(瞼)を上げ続けているための無理が原因だからです」

NHKの「ためしてガッテン」で、信州大学医学部教授の松尾清先生は、そう話しました(2008年4月2日放映)。

まぶたを開けたり閉じたりするのは、上まぶたの内側にある上眼瞼挙筋(じょうがんけんきょきん)という筋肉です。

この筋肉の先端は薄い膜状(瞼膜)になっていて、まぶたのふちの板状の組織(瞼板)につながっています。

上眼瞼挙筋が収縮し、瞼膜を引っ張って瞼板を持ち上げると、まぶたがあきます。

つまりまぶたがあいているときは、上眼瞼挙筋はずっと収縮しているわけです。

ところが、瞼膜と瞼板の結合は非常にデリケートで、はずれたり切れたりしやすい。

それでもまぶたがあくのは、上眼瞼挙筋と瞼板をつなぐミュラー筋という特殊な筋肉が、まぶたをあけるのをサポートしているからです。

が、そのミュラー筋もえんえんと負担が続くうちにくたびれて、まぶたは垂れ下がったままのたれ目(医学用語では眼瞼下垂)になってしまいます。

高齢者のたれ目は加齢のせいですが、コンタクトレンズを長期間使っている人に見られる眼瞼下垂は、上まぶたを引っ張って、レンズをつけたり、はずしたりするとき、瞼膜と瞼板の結合がはずれるためのようです。

眼瞼下垂(瞼膜性眼瞼下垂症)を治すには、まぶたを切開し、瞼板からはずれた瞼膜を元の位置に縫いつけてやればいいのです。

形成外科医の松尾先生は、この手術を数多く行ってきました。

そうしましたら手術後、まぶたのあけしめが楽になっただけではなく、「頭痛が消えた」「肩や首のこりがとれた」「体の調子がよくなった」「うつ状態がなくなった」といった感想を述べる人がとても多かったのだそうです。

教授らは、その理由を追究し、まぶたの筋肉が、脳と体にかかわるメカニズムを解明しました。

まぶたを上げるために上眼瞼挙筋を収縮させると、額の筋肉とつながっている頭の表面を覆っている筋肉も収縮します。

眼瞼下垂の人は、上眼瞼挙筋が正常に働かなくなっているので、額や頭の筋肉が強く緊張し続けます。

また、ミュラー筋には筋肉の伸縮を感知するセンサーのようなものがあるのですが、そのセンサーが引っ張られると、顔面の三叉神経や自律神経に反応して、交感神経の過剰な緊張が続くことにもなります。

結果、頭の表面をおおっている筋肉の疲労が原因の緊張型頭痛や、首筋から肩につながっている筋肉が縮み、肩こりも起こるのです。

以上はごく大雑把な話です。

もっと詳しくきちんと知りたい人は、松尾先生の著書『まぶたで健康革命』(小学館刊1300円+税)をお読みください。

「原因のはっきりしない頭痛や肩こり、うつ症状などに悩まされている人はいませんか。あなたは、まぶたを上げるのに知らず知らずのうちに無理をしているのです」と先生は言っています。

そう言われても、まぶたの手術はちょっと……と二の足を踏む人もあるでしょう。

同書には誰でもすぐできる「まぶたにかかる負担を軽くする秘密の技」が紹介されています。

セロハンテープを4~5㌢ほどの長さに切り、目をつぶった状態でテープの片端を眉毛の下に貼りつけます。

まぶたをあけながらテープを引っ張り上げ、眉毛の上の額に貼りつけます。

「テープでまぶたを引き上げて、額の筋肉が縮まないようにするのは、まぶたを上げる筋肉の負荷をゆるめる、手術に替わるよい方法だと私は思っています。だまされたと思ってやってみてください。劇的な効果があります」

やってみました。肩こり頭痛はないのですが、たれ目が引っ張り上げられると、なんだか気分がすっきりし、パソコン作業の眠気が遠のくようでした。

なお、テープに眉毛がくっつくのを避けるには、「はってはがせるテープ」が適しています。

<(株)心美寿有夢・企業情報誌『絆』30号=2010年11月発行=より再録>
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医学記者半世紀=忘れえぬ医師・患者 [雑感小文]

医学記者半世紀=忘れえぬ医師・患者・夫婦の物語

過日、あるところで拙い話をさせていただいた。

下は、その折の録音テープを、聴こえる耳をもつ人に文章化してもらったものです。


ご紹介いただきました丸山です。

と申しましても、じつはどのようにご紹介いただいたのか、いま、私の耳では聞くことができませんでした。

ごらんのように両耳に補聴器をつけていますが、これ、最大パワーのやつなんですが、それでもちょっと離れた人の声はほとんど入ってこないのです。

でも、これをつけてないと、自分の声も聞こえないものですから、極端にいえば、自分の声を聞くための補聴器なんです。

耳がこんなふうになったのは、8年前。2006年の五月の連休明けでした。

そのことを話し始めると長くなりますが、耳がダメになって、とにかく不便、不自由なことだらけですが、なにがいちばん困るか、つらいか、といえば、人の話を聞くことができないことです。

聞くことができなければ、会話は成立しません。

人と会う楽しさ、よろこびというのは、会話を交わす、談笑する、しゃべり合って笑う楽しさだと思うのですが、それができないんですから、楽しさは半減です。

老後の生活を、元気にいきいきと過ごすために、大切なことが二つあって、それは「きょういく」と「きょうよう」です。

「きょういく」といっても、学校で先生に教わる「教育」ではなくて、「今日、行くところがある」の「今日、行く」で、「きょうよう」というのは、「今日、用がある」の「今日、用」です。

現役で仕事をしていたときは、毎日、行くところがあって、毎日、用があったわけですが、リタイアすると、とたんに行くところも、用も減ってしまいます。

で、家に引きこもって、ぼんやり過ごしていると、老け込んでしまいます。

毎日、行くところや、用をつくって、活動的な生活をする、きょういく、と、きょうよう、そして、もう一つ、「今日、感動した」の「きょうかん」が、心身の老化を防ぐためにとても大切だ、と思います。

きょういく、きょうよう、きょうかん、これが老後のはつらつ元気の三要件だと言った人がいます。

だれが、いつ、言ったか?

いま、私が、言いました。

じゃ、そういう自分はどうなんだ、残念ながら、耳がこわれた聾後、この聾は、龍と言う字の下に耳をかく聾、聾唖の聾ですが、聾後は、きょういくも、きょうようも、ガタンとへって、なんだか閉じこもり同然の生活になっています。

そんなわけで、今日、ここで、このような機会を与えていただいたことは、非常に光栄で、本当にありがたいことでした。

私のような名もない素人が、医学や医療についての有益な話などできるわけはないので、その起用には、ためらいがあったと存じますが、ま、「ええじゃないか」というご高配をいただいたのでしょう。関係者のみなさまに心からお礼を申し上げます。ありがとうございました。

さて、本題ですが、耳がこわれるまでの私の仕事は、あちこちの病院のお医者さんたちにお会いして、教えていただいたことを、雑誌や新聞の記事にすることでした。

その仕事を始めたのは、昭和32年に、ある駅売りの新聞の文化部の記者になったときでして、昭和32年といえば、ご存じのように昭和の年数に25をたせば西暦になりますから、32タス25は、57、昭和32年は、1957年ですから、えーと67、77、87、97、2007年で丁度50年、耳がこわれたのは2006年ですから、正確に勘定すると49年ですが、ま、1年は負けてもらうことにしまして、半世紀になるわけです。

半世紀の間にお会いして、お話を伺った医師や医学者は1000人を超えると思います。

1000人ものドクターにインタビューして、記事を書いてきて、じゃ、ずいぶん医学や医療の知識が豊富になったかといいますと、全然、そんなことはありませんで、記事を書くはじから、たちまち、どんどん忘れていきます。

一を聞いて十を知るといいますが、付け焼刃の知識は、百を聞いても一も残りません。

 話の内容だけではなくて、一期一会といいますか、一度、お会いして、それきりのかたがほとんどなものですか、お会いした先生その人のことも、思い出せない。

申し訳ないですけど、忘れてしまった先生がほとんどです。

しかし、いまでもよく覚えている、忘れることのできない先生も何人もおられます。

記者になって5、6年たったころでしたが、臨床の現場のお医者さんに、なにか面白い読み物的な話を書いてもらおうじゃないかということになりまして、ある大学病院の産婦人科の講師の先生に原稿を頼みに行ったことがあります。

病院の構内にある喫茶店でお会いして、毎週1回、原稿かいてくださいとお願いしましたら、「どんな話がいいですか?」と聞かれました。

そのとき、ふっと頭に浮かんだのが、当時テレビのたいへんな人気ドラマだった「ベン・ケーシー」でした。

覚えていらっしゃる方も多いと思いますが、脳神経外科のドクターが主人公の医療ドラマです。

で、「ベン・ケーシーみたいな話だったら面白いと思うんですが」と言ったんです。ま、その程度の編集者だったわけです。

そうしましたら、先生は、一瞬、えっ? という顔をして、すぐ、「ああ、ベンケーシーね。あれ、私も面白いテーマだと思っていました。やってみましょう」

「ありがとうございます」というわけで、一と月たちまして、原稿をもらいに行きました。

そうしましたら、先生が、私の顔を見るなり、「いやあ、あのベンケーシーには参りましたよ」とおっしゃる。

「え、どうしてですか?」

「いや、あのとき、私はベンケーシーが何者か知らなかったんですよ。でも、素人が知ってるのに、医者が知らないんじゃ、沽券にかかわると思って、ま、医局に戻ってから聞けば、だれか知ってるだろうと思って、わかったような返事をしたんです。だけど、医局のだれに聞いても知らない、図書館に行って調べたけど、何を見ても、ベンケーシーなんて医学者はどこにも出てこない。いや、すっかり困って、これはもう教授に聞くしかないなあと思いました」と、そうおっしゃる。

ま、いまだったら、インターネットで検索すれば、どさっと出てきますけど、当時はそんなものはありませんからね。

困ったときの神頼みじゃないですが、医学部の教授といえば、知識人の代名詞のような大学教授のなかでも別格で、たいへんな偏差値秀才の成れの果て(笑い)、こと医学に関しては知らないことはない、医学辞典が白衣着てる殿様みたいな人です。

で、先生は、教授室に行って、「ベンケーシーという医学者をご存じでしょうか」と聞きました。

そうしましたら、さすがの教授も、うーんと頭をひねって、「ああ、ベン・ケーシーねぇ、あれは1954年だったかなあ、なにか論文読んだなあ」(笑い)

「それで、結局、おわかりになったのですか?」

「ええ。正解は、掃除のおばちゃんが教えてくれましたよ」

それ、聞いて、私はゲラゲラ笑いながら、医者という人たちはすごいなあ、と思いました。

たしか、あのドラマの放送は、ウイークデーの夜9時か10時だったと思うのですが、ウイークデーのそんな時間にテレビを見ているような人は、一人もいなかった。

それはその大学病院のその科の先生たちだけではなくて、どこの病院でもそうなんだろう、つまり、医者であるということはそういうことなんだ、そうでなければ、いい医者であり続けることはできないんだ、そう思ったら、身が引き締まるような気がしました。

そして、自分も、せめて、そういう人たちの周辺で、いくらかでも記事を読んでくれる人のお役にたてるような仕事をしていきたいと思いました。

で、やはり、同じころでしたが、野口英世記念医学賞という賞を受賞された、国立予防衛生研究所の所長の中村敬三先生をお訪ねしたことがありました。

中村先生は、アレルギー研究の世界的権威でしたが、その先生に「アレルギーというのは、どういうものですか、簡単に教えてください」と言いましたら、「そう簡単に教えられたら苦労はないよ」と苦笑されまして、「詳しい話は、弟子の石坂くんに聞いてくれ。いまここの若手でいちばんいい仕事をしている研究者です」ということで、別棟の免疫血清室というところで、石坂公成(きみしげ)という先生にお会いしました。

いま、石坂公成先生といえば、アレルギーのIgE抗体の発見者として、医学や医療の関係者はもちろん、一般的にも知られている世界的な医学者です。

アレルギーにはいくつも種類がありますが、圧倒的に患者が多くて、よく知られている花粉症とか、ぜんそくなどのⅠ型アレルギーというのは、スギ花粉とか、ダニとかカビとか、卵とかソバとか、人によってさまざまですが、そういう抗原、アレルギーの原因となるものが、体の中に入ってきたとき、それに対抗するIgE、免疫グロブリンのEという抗体が反応して、抗原抗体反応というものを起こして、ヒスタミンとかロイコトリエンとかいう物質が出てきて、くしゃみ、せき、鼻づまり、目のかゆみというような症状を起こします。

そのIgE抗体を、アレルギーの人の血清、血液の上澄みの中から見つけたのが、石坂先生と共同研究者の照子夫人で、後年、文化勲章をはじめ、いろいろな賞を受賞しておられます。

もちろん、私がお会いしたときの石坂先生は、まだ30代の半ばごろで、いかにも育ちのいい秀才といった感じの背の高い上品なハンサムでして、あとで知ったことですが、昔、経団連の会長だった石坂泰三さんは、先生のお父上の弟、つまり叔父さんに当たるそうです。

で、その石坂先生に、アレルギーというのは、どういうものなんですか、と、幼稚な質問をしまして、なにしろ、そのころは、花粉症なんて病気はまだ全く知られてなくて、アレルギーといえば、子どものぜんそくとか、じんましんとか、素人は、それくらいしか知りません。

日本で最初の花粉症の報告は、昭和36年に東京大学の荒木英斉先生がブタクサ花粉症を報告して、昭和39年に東京医科歯科大学の斎藤洋三先生がスギ花粉症を報告したのですが、でも、当時の有病率はまだとても低くて、昭和40年代でも数%でしかなかったのです。

そのスギ花粉症が急にふえたのが、昭和54年で、3年後の57年に大量のスギ花粉が飛んで、患者がどっと激増したので、マスコミが大騒ぎして、スギ花粉症を知らない人はいなくなったわけですが、私が、石坂先生にお会いしたのは昭和36年の秋でしたから、そのときの記事の切り抜きを見ても、花粉症のカの字も出てきません。

もっぱら、ぜんそくについて教えていただいたわけですが、いまでもはっきり覚えているのは、机の上のザラ紙に、用語とか、図式とか、いちいち書いて、ていねいに詳しく説明していただいたことです。

そのころは、小型のテープレコーダなんてありませんから、取材は下手な字でメモをとるしかないんですが、そのときは、先生が書いてくださった何枚もの、その紙をいただきまして、それを見ながら記事を書きましたので、間違いのない、けっこういい記事ができまして、で、切抜きを取っておいたわけです。

そんなわけで、石坂先生のことはとても印象強く脳裏に残っていました。

それから何年もたって、昭和49年に先生が文化勲章を受章されまして、当時、先生はアメリカの有名なアレルギー研究所の所長をされていましたが、帰国された先生の講演を聴衆の一員として聴くことがあったり、また、石坂先生ご夫妻が、IgE抗体の発見を、アメリカのアレルギー学会で発表した、つまり、IgE抗体というものが、医学の歴史に記された日ですが、その2月20日を、日本アレルギー協会が「アレルギーの日」に決めたとか、そういうことのたびに、アメリカに行かれる前の若い研究者だった先生にインタビューしたことのある記者は、そう多くはいないだろう。
もしかしたら、おれ一人かもしれないなと思って、仲間内でアレルギーの話が出たりすると、おれのアレルギー学は石坂公成先生直伝だからなんて、バカな軽口を叩いたりしてました。

さて、そうして、いまから11年前、2000年の4月のことですが、その年の日本国際賞の受賞者の一人に石坂先生が選ばれました。

日本国際賞といいますのは、ご存じのかたもおありでしょうが、鈴木善幸内閣の総理府長官だった中山太郎さんが、「日本にもノーベル賞なみの世界的な賞を」という提言に松下幸之助さんが賛同されて、創設されたもので、母体になる国際科学技術財団は、松下さんのほか、各界の個人や団体からの寄付金を基金にして、その利子で運営されています。

毎年、二つの分野を授賞対象として、世界各国の学者・研究者から推薦された候補者のなかから各分野一名ずつの受賞者を決めています。

この賞を受賞してからノーベル賞に選ばれた人が8人、ノーベル賞受賞後の研究業績でこの賞に選ばれた人が1人いまして、それは江崎玲於奈博士です。ちなみに、賞金は1人5000万円です。

授賞式典は、東京・赤坂の国立劇場で、天皇・皇后両陛下がご臨席になり、衆参両院議長と最高裁長官、つまり三権の長と、所管大臣の文部科学大臣、在日各国の大使、各界の著名人約千人が出席して行われます。

この年、2000年の第16回、日本国際賞の受賞者は、「都市計画」分野のイアン・L・マクハーグという、アメリカのペンシルベニア大学名誉教授と、「生体防御」分野の石坂公成博士、やはりアメリカのラホイア・アレルギー免疫研究所名誉所長でした。

ステージの上には、上手のほうに天皇・皇后両陛下のお席がしつらえてありまして、下手の方に椅子が四つ並んでいて、受賞者席になっていました。

でも、マクハーグ博士の右どなりには同伴の夫人がすわっていましたが、石坂博士のとなりには照子夫人の姿が見えない。どうされたのだろう。まだ式典は始まってなくて、両陛下もお入りになっていられないので、ちょっと遅れてこられるのかなあ、と思っていました。

石坂先生にとって、照子夫人という方は、単に配偶者というだけではなくて、共同研究者ですから、ピエール・キュリーとマリー・キュリー、キュリー夫人のような関係なんですね。

その人が出席されないはずはないんで、どうされたんだろう? って、記者席の一隅で、気をもんでいたわけですが、そのわけは天皇陛下のお言葉でわかりました。

そのとき記者席に配布された「おことば」のコピーがありますので、おそれ多いのですが、一部を読ませていただきます。

「石坂博士のご研究は、人の血清1㍉㍑中に100万分の1㌘しか含まれていない免疫グロブリンEをその抗体を用いて見出すなど、今日多くの人々を苦しめているアレルギー疾患の解明に大きく貢献し、その成果はただちに診断や治療に応用されるようになりました。

このご研究に大きく寄与された令夫人が、ご病気のため、この席で喜びを共にされないことを誠に残念に思います。

かつて文化勲章受賞に当たって帰国されたとき、お二人にご研究のことを伺ったことが懐かしく思い起こされ、博士のお気持ちを深くお察しいたします。」

このとき、石坂博士のお顔がみるみる紅潮し、赤みをおびていくのが、記者席からの遠目でもわかりました。
あとで知ったことですが、照子夫人は、長期の療養の必要な病気になられたので、石坂先生は、アメリカでの仕事を辞職されて、照子夫人の郷里の山形へ帰られて、介護をされているということでした。

もし、石坂先生が、アメリカに留まって、研究を続けておられたら、間違いなくノーベル賞だっただろうという人もいますし、いや、IgE抗体の発見自体がノーベル賞に値するともいわれていますが、しかし、とにかく、先生にとっては、ノーベル賞よりも、研究の継続よりも、奥様のほうがずっと大切だったのだろうと察せられます。

そういったことは、人間の大きさも、仕事のスケールやレベルも、天と地ほど違いますが、われわれ下々の庶民でも同じなんじゃないでしょうか。

「仕事と家庭、家族、どっちが大事か」というのは、よく問題になることですが、仕事があっての家庭だし、家庭があっての仕事でもあるので、二者択一するような問題じゃないと思いますが、あえていえば、家族がみんな元気だったら、仕事のほうが大事です。

しかし、家族のだれかが生き死ににかかわる重い病気にかかったら、それはもう家族が大事にきまっています。

だから「健康」ほどありがたい、大切なものはないわけでして、幕末の歌人、橘曙覧の歌に、

たのしみは、家内(やうち)五人(いつたり)、いつたりが、風だにひかで ありあえるとき というのがありますが、やうちというのは、家の内、いつたりは五人。自分と妻と三人の子どものことで、

家族五人が、風邪一つひかず、元気でいることほど、たのしい、ありがたいことはないというので、ホントにそのとおりだと思います。

人の幸福の基盤、いちばん根っこのところにあるのが、そうした「家族の絆」なのだと思います。

こんな話を、ある脳神経外科の教授に聞いたことがあります。

非常に重い脳卒中の人が、その大学病院に搬送されてきまして、救急救命で、なんとか命はとりとめたのですが、意識が戻ったときは、口はきけない、尿も便も垂れ流し…という状態だったそうです。

患者さんは50代の男性で、農家のご主人でしたが、冬の寒い日に家で倒れて、救急車で運ばれて、気がついたら、病院のベッドの上で、そういうことになっていた。

ICU(集中治療室)で、感染の問題なんかがあるので、家族はガラスごしにしか、ご病人を見ることができません。

口がきけないので、意思表示をするのは、看護師さんが、目の前にかざしてみせる、アイウエオの五十音の表を、どうにか動く片方の手の指で指して、言いたいことを伝えるわけです。

で、「ご気分は、どうですか?」と聞きますと、その五十音図のまず、コの字を指して、それから、ロの字を指して、そして、セの字。コ、ロ、セ。

「どこか、痛いところはないですか?」 コ、ロ、セ。

「顔色、いいですよ」コ、ロ、セ。

何を聞いても、何を言っても、返事は、コ、ロ、セ。コ、ロ、セの一点張り。

看護師さんも、担当の先生も、ほとほと困ってしまって、どうしたらいいでしょうと教授に相談しました。

教授は、「家族に会わせなさい」と指示しました。

おかみさんが、やってきて、あれ、なんていうんですかね、消毒した、エプロンみたいな上っ張りを着て、大黒様の帽子みたいなやつをかぶって、集中治療室に入って、ご主人の手を握って言ったそうです。

「お父さん、いいんだよ! 口なんか利けなくたって、いいんだよ! 手足が動かなくても、いいんだよ! 生きててくれれば、それでいいんだからね。

3月には、昭が高校卒業だけんど、お父さんが死んじまったら、めでたくもなんともないべ。お父さんがいてくれるから。めでたいんだべ。だから、絶対死なせないよ。私が必ず退院させてやっから、お父さんも、がんばってね」

その日から、患者さんは、がらっと変わったそうです。

表情が明るい、ひたむきな感じになって、

先生や看護師さんのいうことも素直に聞いて、治療に積極的に協力するようになって、リハビリも一所懸命やって、たどたどしいけど口もきけるようになって、5カ月ほどたって退院するときには、こけてもいいから、つえを持ってこいといって、つえをついて、自分の足で歩いて退院したそうです。

これが本当のリハビリテーションですと、教授は言いました。

リハビリテーションの本来の意味は、権利、また名誉の回復、復権という意味で、その人が、自分の生きていく世界で、自分の居場所をちゃんと見つけられること、それがリハビリテーションのゴールですと、教授は言われましたが、それは同時に人の幸福のスタート、原点なのだと思います。

家庭の幸福は諸悪の本」といったのは、太宰治ですが、それは、言い換えると、人の幸福の本は、家庭にあるということだと思います。

もっといえば、家庭の幸福なしに、夫の幸福、妻の幸福、子どもの幸福は、あり得ない。

ただ、そこで止まって、固まってしまうと、我が家さえよければいいという、小さなエゴイズムになってしまい、それがひいては諸悪の根源に通じるのではないでしょうか。

そうではなくて、本当に幸福な人というのは、人を思いやる心の豊かさ、心のゆとり、優しい想像力をもっている人なのだと思います。

大震災のとき、被災地へ向かったボランティアの人、義援金を寄せた人、何をしたらいいか、何ができるかと、かんがえ、祈った人、そうした人たちは、みんな本当の意味で幸福な人で、幸福な家庭をもっている人なのだと思います。

みなさん、ご家庭を、ご家族を、だいじになさってください。

とりとめもない話を聞いていただいて、ありがとうございました。
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